ぺねとれ2世と仲間たち

どこかの音楽好き。哲学も好き。

中3の時に書いた修学旅行の思い出の作文が無駄に重い件

修学旅行、みんなのおかげ

三年二組 七番 名前
 
 僕は、この修学旅行に行って、集団の大切さをとても理解することができた。中学一二年生の修学旅行の時は、人を攻撃して楽しさを得るような人が多かったので、僕や友達は、自分の身を守るために必死だった。そんな状況だったので、僕は、先生が、集団の一員としての自覚を持ちなさいと言うたびに、なんであんな人達と同じ集団にならなければならないのかと考え、集団という言葉が大嫌いになった。集団の一員と言われるたびに人を攻撃する人と同格にされている気がしたからだ。みんなが自分のことしか考えていない中での修学旅行はとても苦かった(ママ)。富士山に行った時も、長野に行った時も、周りの意識や、陰口などが気になり、全然感動することができなかった。友達は周りから自分を守るためにあった。一人でいると攻撃されやすいからである。普通に仲が良かったのに、いきなり裏切られることもまれではなかった。
 でもこの学校に転校してきて、最高の友達と集団で修学旅行に行くことができた。お互いを助け合い、みんなで笑いあうことができた。そのため、僕は京都の町と、その文化について色々と感じることができた。
(以下、京都についてひたすら書いてあるだけなので割愛)
 
 
なんだこの重い修学旅行の作文は…。
これは、昨日実家に帰ったときに発掘した作文である。
 
「友達は周りから自分を守るためにあった。一人でいると攻撃されやすいからである。」
 
この文章が非常に興味深い。この頃に、私は他者を自分を守るための手段としてのみ扱うことはもうやめようと決意したのだ。
 
カントの有名な言葉に、「汝の人格においてであれ、あらゆる他者の人格においてであれ、その人格を常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱うことのないように行為せよ」というのがある。この言葉を知ったのは高校生になってからだが、自分のこの時の決心が、カントの思想に通ずるものであったことに、後々とても驚くことになるのだった。