ぺねとれ2世と仲間たち

どこかの音楽好き。哲学も好き。

チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」

 

底知れぬ深い絶望。私は初めてこの曲に出会ったとき、私のことを理解してくれる芸術がこの世界に存在してくれたことに、とてつもない安心感を覚えたのだった。この曲の存在は、今でも私という人間を根底から支えている。この曲がこの世界に存在しなければ、私は心の拠り所を失い、孤独に耐えられなかったかもしれない。
 
悲愴は、チャイコフスキーが初めて包み隠さずに自分の精神のすべてを投げかけた曲であり、彼が初めて出来栄えに自信を持てた交響曲である。
 
この曲のポイントは、自らの罪状の告白、美的世界への憧憬、精神の不安をありのままに叙述した点にある。4番交響曲では絶望と折り合いを成すことができず、激しい怒りと不安を感じ、5番交響曲では絶望と向き合うのを諦め、幻想の世界に身を投じ、そしてこの6番交響曲で初めて絶望と真に向き合い、自分自身の精神状態を告白するチャイコフスキーの姿が見て取れる。
 
4番交響曲の回で述べたが、チャイコフスキーの音楽を理解するにあたって、彼が同性愛者であることを無視することはできない。当時、キリスト教的価値観が支配する社会において、同性愛は異端であった。彼は底知れぬ孤独と、誰にも理解されない苦しみを感じ続けていたに違いない。彼は自分が同性愛者であることに対して深く絶望していた。この世界でどんなに作曲家として認められようとも、どんなに努力しようとも、彼は同性愛者にしかなり得なかった。何をしても、孤独、不安、絶望からは逃れられない運命だったのである。
 
1楽章では、彼のこれまでの人生が語られている。底知れぬ絶望、絶望のない世界への憧憬、運命との出会いと精神的危機、生への執着と諦め。彼の思想的遍歴を辿るように音楽は流れていく。
 
2楽章は、幻想に浸ろうとも逃れられない運命を表している。リズムを刻み続けるティンパニが、運命を象徴している。
 
3楽章では、絶望に裏打ちされた彼の狂気的な姿が表されている。絶望に狂気はつきものである。ニーチェをはじめとする哲学者たちが発狂したのも、逃れられない絶望によってである。
 
4楽章では、絶望そのものが描かれる。絶望とは、本当にどうしようもないものだ。絶望に対する諦めを象徴するように音楽は流れ消え去っていく。
 
私は、この交響曲が構成的に美しいものだとは思えない。ただ、そのことがこの曲をより現実的なものとしている。人間の精神は、概して美しく構成されてはいないからだ。人間の精神は、理性では到底統御することができない情念の渦巻きによって支配されるものである。すべての情念を理性によって統御するはたらきは、理想や幻想にすぎない。彼はこの曲を通じ、人間の精神の本当のあり方を叙述することに成功した。
 
私が悲愴に支えられ、悲愴が無くては生きていけないとまで感じるのは、この曲を通じてチャイコフスキーが、「あなたは本当に孤独なのではない」と言ってくれるような気がするからだ。私の精神は誰にも理解されない。ただ、私と同じように誰にも理解されなかった人間が確かにいた。その事実が、私に大きな希望を与えてくれる。孤独ではないと伝えてくれるのだ。