ぺねとれ2世と仲間たち

どこかの音楽好き。哲学も好き。

ショスタコーヴィチ交響曲第5番

今回は、ショスタコーヴィチの曲の中でもっとも人気が高い5番交響曲を取り上げる。

 
この曲は、もっとも人気があると同時に、もっとも誤解されている。誤解する人の中で最も多いのが、4楽章かっこいい!と、勝利の讃歌の派手さに酔いしれるタイプである。このような聴き方を完全に否定するわけではないが、この聴き方はショスタコーヴィチの音楽のごく一面しか見ておらず、彼が曲に織り交ぜた真理を理解しようとしない聴き方であると、批判を承知で私は主張したい。
 
ショスタコーヴィチのすべての音楽に共通する要素が2つある。1つが皮肉、もう1つが孤独である。
 
ショスタコーヴィチの音楽は、皮肉によって成り立っている。私は、5番交響曲の4楽章など、すべて皮肉ではないかと思っている。彼は芸術活動が厳しく統制される社会を生きたのだ。彼の音楽には皮肉で満ち溢れている。だからこそ、ショスタコーヴィチを理解するにあたってはまずその皮肉を直視し、皮肉の裏にある真理を探そうとしなくてはならない。
 
皮肉を使ってでしか自己を表現できない。これは芸術家にとってはかなり孤独なあり方ではないだろうか。ショスタコーヴィチの音楽のほとんどには、孤独がその曲の背後にある。孤独の中でしか彼は生きられなかったのだ。社会に対しての激しい怒り、絶望を抱きながら、彼は自分の真理を1人で探究しようとした。それを芸術という形で、しかも社会に受け入れられる芸術という形のみでしか昇華できなかったのだ。
 
私は、3楽章だけはショスタコーヴィチの真理がストレートに現れていると思っている。3楽章にショスタコーヴィチの悲しみと孤独、激しい怒り、絶望のすべてが込められている。しかし、3楽章が終わってしまうと、4楽章という大いなる虚構にまた身を委ねなくてはならないのだ。
 
ショスタコーヴィチ交響曲第5番は、結果として社会に受け入れられ、大成功を収めた。ショスタコーヴィチは、この曲を世間に広め、彼の本当の言葉を理解してくれる人が1人でも見つかればいいと思っていたに違いない。芸術を聴くものは、彼の皮肉的な一側面にのみ熱狂するのではなく、その背後に隠れている彼の本当の姿を見つけようとする姿勢が必要なのではないだろうか。