ぺねとれ2世と仲間たち

どこかの音楽好き。哲学も好き。

音楽と出会って、中学を辞めた話

私が音楽と出会ったのは、中学2年生の1月。衝撃的だった。なぜか突然、楽典を勉強し、本気で音楽をやろうと思ったのだ。

 
クラシック音楽はそれまでも一応聞いたことはあったが、つまらなくてしょうがなかった。母にクラシックのコンサートに連れて行かれたときも、退屈でしょうがなく、はやく終わらないかな…とばかり考えていた。それなのに、突然音楽をやりたいと思った。自分は音楽をやるべきだと思った。なぜだかはよくわからない。そのときの体験は、宗教の回心の体験に似たようなものであったと思う。
 
当時の私といえば、完全に人間不信の状態であった。中学は、医学部進学に力を入れている中高一貫進学校だったが、陰湿で悪質ないじめが毎日のように平然と行われていた。皆、自分を守るのに必死だった。私が集団に対してアレルギーを持つようになったのも、その頃だと思う。1人では何も出来ない人が、集団を形成しては誰かをいじめる。自分を守るために集団を形成し、自分の代わりに誰かを徹底的に痛めつける。誰かの心が壊れてしまうまで、いじめは行われた。哀れだった。私はいじめを断固として許したくなかった。
 
私は当然のように孤立した。いじめる側にもいじめられる側にも加わりたくなかった。次第に私は、現実と向き合うのをやめるようになった。現実の世界になんら希望も持てなくなったからである。外で会う人間を、誰も信じることができなくなった。
 
そんな中、音楽と出会った。きっかけは学校の音楽の授業だった。初めて出会った音楽は、スメタナの連作交響詩、わが祖国である。この曲を聞いたときの衝撃は今でも忘れられない。なんて美しいんだろう。言葉を失った。この世界にこんなにも美しいものがあるとは知らなかった。現実のすべてが醜く見えていた私にとって、それはあまりにも衝撃的だった。一筋の光が、暗闇の世界に差し込んだようだった。こんなに美しいものがあるこの世界を、誇らしく思った。
 
まもなくして、私はその中学を退学した。正確に言うと転校なのだろうが、確かに退学届を学校の事務に提出したので、退学したと言っても良いだろう。3学期の修了式の日、私はクラスの人々に、「今日でこの学校辞めるから」と言った。みんな、お前は馬鹿だ、とか、頭がおかしくなったのか、と言った。入学するのも大変な進学校だったから、彼らがそのように言うのもわかる。放課後、私はいつものように1人で校門を出て、いつものように帰った。
 
2ヶ月前、6年ぶりにその中学を訪れた。正確には訪れたのではなく、校門の前まで行っただけだったけれど。ここに来るのは、中学を辞めると宣言し、出て行ったあの日以来だった。何も変わっていなかった。ただ、今はあの時より駅から中学までの道が美しく見えた。太陽の光を受けて、街はきらきらしていた。私はもう、あの時とは違うのだと、身をもって実感した。
 
 

チャイコフスキー交響曲第4番

今回はチャイコフスキーの4番目の交響曲に目を向け、彼の絶望を考えてみたい。

 
ところで、私がチャイコフスキー交響曲に副題をつけるとしたら、
4番「絶望と怒り」
5番「欺瞞と幻想」
6番「罪の告白と死」
という感じだろうか。
 
チャイコフスキーの後期交響曲は一貫して彼の絶望がその根底を支配している。では、なぜ彼は絶望していたか。それを理解しようとするのに、彼が同性愛者だったという事実を見過ごすことはできない。
 
4番の交響曲を聴いていると、彼のこんな言葉が聞こえてくる。
 
「なぜ⁉︎どうして⁉︎どうして誰もわかってくれない⁉︎どうして私は他の人とこんなに違う⁉︎なぜ…。」
 
なぜ、どうして、チャイコフスキー交響曲第4番は、この、なぜ、どうして、の繰り返しなのだ。
 
それは絶望の始まりであり、その絶望の対象に対する大きな怒りである。まだこの頃は絶望の対象に対して怒りの感情を抱くことができた。しかし、5番、6番の交響曲では、絶望の対象に対して怒りすら生まれなくなってしまう。
 
彼は、自分が同性愛者であることに、強く囚われていた。誰にも理解してもらえないという苦しみを彼は生涯背負い続けた。そして、彼は罪悪感を抱いていた。自分は神に背いてしまう人間なのだと。
 
彼は孤独だったに違いない。孤独でありながら、自分自身すら許せなかったのだ。なぜ…⁉︎どうして…⁉︎。彼の音楽はここから生まれたのだろう。
 
 

チャイコフスキー交響曲第5番

チャイコフスキーの音楽と初めて出会ったのは、高校1年生の秋だった。チャイコフスキーの曲を聞いたことはそれまでもあったかもしれない。ただ、チャイコフスキーと出会ったと言えるのは、紛れもなくあの秋だった。初めて出会ったのは交響曲の第5番。すぐに親しみが持てた。でも私がチャイコフスキー交響曲第5番に惹かれたのは、ホルンのソロがあるから、金管楽器が目立つから、親しみやすいメロディーがあるから、そんな理由ではない。何か、切ないものを感じたのだ。4楽章を聞いたとき、彼は嘘をついている、と思った。今でもその考えは変わらない。彼は、何かと戦っている、そしてその戦いに彼は絶対に勝てない運命にある。この交響曲で、彼は夢を見た。自分が運命に打ち勝つ夢だ。しかし、そんなものはたかが夢だ。虚構にすぎない。彼は絶望していた。その絶望に耐えられなかったのだ。だから、夢を見るしかなかった。

 

私はこれまで、幾度か虚構の中に生きる人に会ってきた。彼らには共通して深い悲しみがあった。
 
チャイコフスキーの音楽にたまらなく惹かれ、共感するのは、彼が心の中に深い悲しみを持ち、戦いに負けた人間だからだろう。私は総じて、勝者よりも敗者が好きだ。